雨の一日

 悦ぶべきか、哀しむべきか、晴耕雨読ならぬ、晴耕雨休とあいなり、一日室内の片付けやパソコンに向かっていました。夢とは、本来実現しないほど遠くかなたにあって、その方向に追い求めるもの。追い求めるものがあるだけ幸せと、今日も一縷の可能性に賭けて、時間を使っているというわけです。どんな人も、どんなことも、納得したうえでだったら、やりがいはあります。そこがなんにおいても、一番大切です。
 夕方は、「地蔵っこ」という行事に参加しました。元々は、子供の成長を願って、親子が集まり、手作りのけんちん汁などの料理で祝う親睦会のような部落行事でした。それが、時代の変化でだんだんすたれ、若いお母さんたちは不参加で、かろうじて、昔のお母さんたちが集まって、その行事がなくなるのを防いでいるという段階です。
 今日は、珍しく当番の家のお嫁さんと子供たちが参加で、昔のにぎやかだった地蔵っこを思い出しました。でも、よもやま話に花が咲き、みな帰ろうとせず、やはり交流は人間生活のうるおいなのだと実感しました。