地蔵講

昨夜は、地蔵講という子供の出産と健やかな成長を願う集まりがあり、ピース・エコ・ショップを終えると、それにかけつけた。
 四十年近く前、この地に移ってきた頃は、この地蔵講はとても盛大で、年三回のまわり番で自分の家の番になると大変だった。最初の頃は、持ち回りで家でやっており、けんちん汁、五目ご飯、お漬物は最低限用意し、そのうち部落の集会所でやるようになった。そのころは子供も多く、ほんとににぎやかだった。
 今はそれが昔話になり、出席者も激減。それでもいいほうで、他のこの種の集まりは、やめてしまったところも多い。子供の参加も減ったし、次第に五目御飯も、けんちん汁も姿を消し、お寿司をとるようになり簡素化している。それでもできるだけ続けていこうと、残った者たちで話し合って現在に至っている。
 今回も、もちろん子供はいなく、出席者も平均年齢高く、人数も少ない。でもそれはそれで、気楽に本音が話せて楽しい。いろんなところに話が飛んで面白い。その日の当番の人が、キュウリの佃煮を作ってきてくれて、夏にキュウリがたくさん取れるときにもこれはいいという話になり、古漬けのキュウリが冷凍庫にあるという話になり、冷凍庫がどこの家でも満杯という話になった。
 私が、そもそもユニセフ・エコ・ショップを発想したのも、上の話と相通じるところがある。畑で野菜を作っても自分の家庭で食べるのは、ほんのわずか。それでも草取りをする時間は必要。少人数の家庭だと、おかずもたくさん作ると余る。ほんとのところ必要な分だけあると、ありがたくおいしく感じる。冷凍庫がいっぱいだと思うだけですっきりしない。自分の周囲にあるものが、すべて活用され、循環して、自分はそのおすそ分けでありがたくおいしく感じて、日々をおくるにはどうしたらいいかという答えが、当時「ユニセフに送って役立ててもらおう」になった。
 「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」という私の好きな言葉がある。現象である人間にとっては、どんな権力者とて、大金持ちとてそれが限界である。何が大切かといえば、すべてに平等に与えられた時間をどう使うか、「時は命なり」ではないだろうか。